2011年6月28日火曜日

福島県の被災地を視察

家の土台の跡に手向けられた花束

橋げただけが残る

現地を視察する一行

田んぼに打ち上げられた漁船
「こんなところにも津波が押し寄せたのか…」
車窓にうつる光景を見ながら、長崎大学病院の河野茂病院長はしばらく言葉を失った。
6月26日、南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長の案内で津波の被災地域を視察した。

荒野を突き抜ける一本道を海に向かった。山積していたがれきは4月に比べて片付けられていた。泥で覆われていた大地には雑草が生え始め、うっすらと青く色づく。道端には一輪のタンポポが花を咲かせ、力強く大地に根付いていた。辺りを見渡せば、家の土台だけが並ぶ。脇には鮮やかな花が手向けられていた。火力発電所近くを車で巡ると、橋げただけが無惨に残る。ここはあの日のまま、時間が止まっていた。

国道6号沿いを走ると、船底を空に向けたボートや漁船が田んぼの真ん中に30隻以上も点在していた。持ち主が動かさない限り、そのままだという。「あまりに理不尽なことが多い」と金澤院長は悲しげな表情で話した。「個人で撤去するのはまず無理。なぜ撤去にかかる費用や作業を行政や国が担えないのか」。河野病院長は語気を強める。

放射線の“被害”だけでなく、津波の大被害に遭い助けを必要としている福島県。「宮城や岩手の津波被害はテレビでよく見る一方で、これほど福島県がひどいとは…。派遣した先生たちの報告を聞いていたが、現地がこんなに悲惨だったとは思いもしなかった」。河野病院長は国にも国民にも状況がうまく伝わらない現実を憂いた。

2011年6月27日月曜日

飯舘村の復活を信じて 


荒れた田畑が目立った飯舘村

 福島市と南相馬市を往復する途中、放射線量が高いといわれる飯舘村を通る。4月上旬にはところどころに根雪が残り、計画的避難区域に設定されていなかった。約3カ月後。土に覆われていた田畑には雑草が生い茂り、人の手が行き届かない荒れ地が目立った。

 「飯舘牛というブランド牛があって、村の人たちは畜産業に頑張っていたんですよ。この村はどぶろく特区にもなっていて、酒もおいしかったんです」。車中で福島県立医大の鈴木眞一教授がこう教えてくれた。「どぶろくの飲める店」と書いた看板が目に飛び込んできた。

 畜産業と農業を基幹産業として生計を立ててきた村は今、ゴーストタウンになった。役場も福島市内に移り、家々は雨戸が閉め切られた。

 この村に再び明かりが灯る日を信じたい。長崎が荒野から復活したように。おいしい飯舘牛も、どぶろくも、必ずファンの口に入る日がくるように。

放射線への誤解が差別や偏見を生む

南相馬市の現状について話す及川副院長(手前)
 南相馬市立総合病院の及川友好副院長は当直や手術という医師の役割を果たす一方で、市内の小中高校の被ばく線量を計測して情報提供にも努めている。「この町では自治体も被災者。自治体の職員は約8割の苦情の電話を1カ月以上受けて精神的にもまいっている。線量計で測定する仕事は本来行政の仕事かもしれないが、余力がある人がやるしかない」。市全体のマンパワー不足も相まって、及川副院長自身、激務が続く。
 
 岩手県や宮城県と同じく甚大な津波被害を抱えているものの、医療の提供や情報伝達という支援を「放射線への誤解」が阻む現状がある。ここ数カ月、国の放射線量の基準が二転三転する中、住民たちは振り回され不安にさらされてきた。さらに周りの市町村や県外の人たちは南相馬市に近づくことを恐れ、福島ナンバーの車の出入りを拒絶した。

 「いじめられっ子の気持ちが分かった」。及川副院長はぽつりとつぶやいた。震災以降、原発から離れた市町村や福島県外で、放射線を過度に怖がるあまり、差別や偏見を生み出した。被爆地長崎や広島でも同じような問題を抱えた歴史がある。「被爆した若い娘は結婚できない」「放射線がうつる」などという誤解が多くの被爆者を奇異の目にさらした。

 いったい私たちは苦い経験や歴史から何を学んでいるのだろうか。


 河野病院長は金澤院長と及川副院長に窮状が届いていないことを伝えた。「全国の医師や国の目は岩手や宮城に向いており、福島に向いていない。南相馬市のこんな状況を知らない人がほとんど。実際に来てもらって見てもらうべき」。

地域医療の復活は地域の再生につながる

南相馬市立総合病院を訪れた河野病院長(右から2人目)

避難所訪問後、別れ際に深々とお辞儀を交わす。金澤院長の感謝の気持ちが伝わる
 「本当にありがとうございました。どこからも医療支援が入らない中、長崎のチームに入ってもらって、医療を必要とする人たちを掘り起こしてくれた。本当に助かった」。南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長は深々と頭を下げた。
 震災当時18人いた医師も今ではわずか5人。当直を回しながら、外来などに対応している。7万人といわれていた南相馬市の人口は震災から約4カ月弱で3万1000人まで減った。
  しかし人口が減少する一方で、緊急時避難区域に入る同病院は入院患者の受け入れにこだわった。6月中旬から70床を持つことが福島県から許された。そこには南相馬市自体の再生を懸ける姿勢も垣間見える。
 同病院の及川友好副院長はいう。「医療、福祉、教育を柱に町おこしに取り組んできた。これらがなければ住民たちは安心してこの地で生活をすることができない。まずは医療の再生を目指していきたい」。
 この3カ月で支援の形は変化した。これまでは孤立した医療難民を拾い上げる“急性期”だった。今度はシステムや態勢を整える「地域医療の再生」という次の局面へと展開している。

河野病院長が南相馬市を訪問

雨の一日になった福島
 6月末で長崎大学病院は南相馬市への医療支援を終える。4月からのべ30人を超える医療スタッフや職員を派遣してきた。6月26日、河野茂病院長は福島県を訪問。南相馬市の医療支援終了にあたって挨拶しておきたいという律義な姿勢が表れる。
  午前8時半、河野病院長は福島県放射線健康リスク管理アドバイザーで長崎大学大学院医歯薬総合研究科長の山下俊一教授らとともに福島市を出発、南相馬市の市立総合病院へ向かった。気温は18度。肌寒い雨の一日だった。