2011年6月28日火曜日

福島県の被災地を視察

家の土台の跡に手向けられた花束

橋げただけが残る

現地を視察する一行

田んぼに打ち上げられた漁船
「こんなところにも津波が押し寄せたのか…」
車窓にうつる光景を見ながら、長崎大学病院の河野茂病院長はしばらく言葉を失った。
6月26日、南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長の案内で津波の被災地域を視察した。

荒野を突き抜ける一本道を海に向かった。山積していたがれきは4月に比べて片付けられていた。泥で覆われていた大地には雑草が生え始め、うっすらと青く色づく。道端には一輪のタンポポが花を咲かせ、力強く大地に根付いていた。辺りを見渡せば、家の土台だけが並ぶ。脇には鮮やかな花が手向けられていた。火力発電所近くを車で巡ると、橋げただけが無惨に残る。ここはあの日のまま、時間が止まっていた。

国道6号沿いを走ると、船底を空に向けたボートや漁船が田んぼの真ん中に30隻以上も点在していた。持ち主が動かさない限り、そのままだという。「あまりに理不尽なことが多い」と金澤院長は悲しげな表情で話した。「個人で撤去するのはまず無理。なぜ撤去にかかる費用や作業を行政や国が担えないのか」。河野病院長は語気を強める。

放射線の“被害”だけでなく、津波の大被害に遭い助けを必要としている福島県。「宮城や岩手の津波被害はテレビでよく見る一方で、これほど福島県がひどいとは…。派遣した先生たちの報告を聞いていたが、現地がこんなに悲惨だったとは思いもしなかった」。河野病院長は国にも国民にも状況がうまく伝わらない現実を憂いた。

2011年6月27日月曜日

飯舘村の復活を信じて 


荒れた田畑が目立った飯舘村

 福島市と南相馬市を往復する途中、放射線量が高いといわれる飯舘村を通る。4月上旬にはところどころに根雪が残り、計画的避難区域に設定されていなかった。約3カ月後。土に覆われていた田畑には雑草が生い茂り、人の手が行き届かない荒れ地が目立った。

 「飯舘牛というブランド牛があって、村の人たちは畜産業に頑張っていたんですよ。この村はどぶろく特区にもなっていて、酒もおいしかったんです」。車中で福島県立医大の鈴木眞一教授がこう教えてくれた。「どぶろくの飲める店」と書いた看板が目に飛び込んできた。

 畜産業と農業を基幹産業として生計を立ててきた村は今、ゴーストタウンになった。役場も福島市内に移り、家々は雨戸が閉め切られた。

 この村に再び明かりが灯る日を信じたい。長崎が荒野から復活したように。おいしい飯舘牛も、どぶろくも、必ずファンの口に入る日がくるように。

放射線への誤解が差別や偏見を生む

南相馬市の現状について話す及川副院長(手前)
 南相馬市立総合病院の及川友好副院長は当直や手術という医師の役割を果たす一方で、市内の小中高校の被ばく線量を計測して情報提供にも努めている。「この町では自治体も被災者。自治体の職員は約8割の苦情の電話を1カ月以上受けて精神的にもまいっている。線量計で測定する仕事は本来行政の仕事かもしれないが、余力がある人がやるしかない」。市全体のマンパワー不足も相まって、及川副院長自身、激務が続く。
 
 岩手県や宮城県と同じく甚大な津波被害を抱えているものの、医療の提供や情報伝達という支援を「放射線への誤解」が阻む現状がある。ここ数カ月、国の放射線量の基準が二転三転する中、住民たちは振り回され不安にさらされてきた。さらに周りの市町村や県外の人たちは南相馬市に近づくことを恐れ、福島ナンバーの車の出入りを拒絶した。

 「いじめられっ子の気持ちが分かった」。及川副院長はぽつりとつぶやいた。震災以降、原発から離れた市町村や福島県外で、放射線を過度に怖がるあまり、差別や偏見を生み出した。被爆地長崎や広島でも同じような問題を抱えた歴史がある。「被爆した若い娘は結婚できない」「放射線がうつる」などという誤解が多くの被爆者を奇異の目にさらした。

 いったい私たちは苦い経験や歴史から何を学んでいるのだろうか。


 河野病院長は金澤院長と及川副院長に窮状が届いていないことを伝えた。「全国の医師や国の目は岩手や宮城に向いており、福島に向いていない。南相馬市のこんな状況を知らない人がほとんど。実際に来てもらって見てもらうべき」。

地域医療の復活は地域の再生につながる

南相馬市立総合病院を訪れた河野病院長(右から2人目)

避難所訪問後、別れ際に深々とお辞儀を交わす。金澤院長の感謝の気持ちが伝わる
 「本当にありがとうございました。どこからも医療支援が入らない中、長崎のチームに入ってもらって、医療を必要とする人たちを掘り起こしてくれた。本当に助かった」。南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長は深々と頭を下げた。
 震災当時18人いた医師も今ではわずか5人。当直を回しながら、外来などに対応している。7万人といわれていた南相馬市の人口は震災から約4カ月弱で3万1000人まで減った。
  しかし人口が減少する一方で、緊急時避難区域に入る同病院は入院患者の受け入れにこだわった。6月中旬から70床を持つことが福島県から許された。そこには南相馬市自体の再生を懸ける姿勢も垣間見える。
 同病院の及川友好副院長はいう。「医療、福祉、教育を柱に町おこしに取り組んできた。これらがなければ住民たちは安心してこの地で生活をすることができない。まずは医療の再生を目指していきたい」。
 この3カ月で支援の形は変化した。これまでは孤立した医療難民を拾い上げる“急性期”だった。今度はシステムや態勢を整える「地域医療の再生」という次の局面へと展開している。

河野病院長が南相馬市を訪問

雨の一日になった福島
 6月末で長崎大学病院は南相馬市への医療支援を終える。4月からのべ30人を超える医療スタッフや職員を派遣してきた。6月26日、河野茂病院長は福島県を訪問。南相馬市の医療支援終了にあたって挨拶しておきたいという律義な姿勢が表れる。
  午前8時半、河野病院長は福島県放射線健康リスク管理アドバイザーで長崎大学大学院医歯薬総合研究科長の山下俊一教授らとともに福島市を出発、南相馬市の市立総合病院へ向かった。気温は18度。肌寒い雨の一日だった。

2011年4月26日火曜日

福島県立医大の副理事長らが表敬訪問 医学部施設など視察

長崎大学病院を訪れた県立福島医科大学の一行
福島県立医科大学の竹之下誠一副理事長ら一行が26日、長崎大学病院を表敬訪問し、長崎大学病院の被ばく医療について、熱心に耳を傾けた。また長崎市内にある放射線影響研究所を視察。午後からは長崎大学医学部の原研施設を見学した。

河野病院長が今秋、院内に設置予定の感染症と被ばく医療、救急医療に迅速に専門的な医療に取り組む「国際医療センター」のビジョンを説明。現在、ロシアの被ばく者に対して取り組んでいる再生医療にも触れ、国内外での幅広い取り組みを紹介した。長崎大学病院の国際ヒバクシャ医療センターの大津留晶准教授は「海外の被ばく者を健診で訪ねるとき、長崎から来たといえばみんな喜んでくれる。単なる疫学調査だけでなく、これまで多くの被ばく者の健康増進につながる診療に関わってきた成果」と、これまでの臨床分野での実績について話した。

福島県立医科大学からは「被ばくされた患者さんが実際に運ばれてきたときのシステムはどのようになっているか」など質問。大津留准教授は「国際ヒバクシャ医療センターを中心に、救急やICU、血液内科など各科が連携するよう体制を整えている。佐賀県の玄海原発で事故が発生した場合を想定して、年一回訓練を実施している」と説明した。

両大学は4月、教育、研究、診療の分野で協力体制を整えることに合意。現在、緊急被ばく医療の分野などで連携している。

2011年4月21日木曜日

緊急被ばく医療の現場 長崎新聞で企画連載

2011年4月21日付長崎新聞1面
4月21日付長崎新聞1面。緊急被ばく医療チームの企画記事が掲載された。連載は3回の予定。

(上)http://www.nagasaki-np.co.jp/news/daisinsai/2011/04/22160043.shtml
(中)http://www.nagasaki-np.co.jp/news/daisinsai/2011/04/22161236.shtml
(下)http://www.nagasaki-np.co.jp/news/daisinsai/2011/04/23092404.shtml

記事は、福島第一原発で原子炉建屋内で作業する作業員が搬送されたときの緊急被ばく医療に取り組む長崎大学病院と福島県立医大附属病院の両病院の医師、看護師たちの様子に着目。原発事故を誘発しかねない余震への不安、被ばくした患者を前に医療スタッフの放射線への恐怖と闘いながら、連携していくさまを伝える。

長崎大学は3月13日、緊急被ばく医療チームを派遣。福島県立医科大での救急に備えて医療体制を整えてきた。4月2日、福島県立医科大学、広島大学と協力支援していくことで調印した。

2011年4月19日火曜日

使命感と勇気 医療スタッフのひたむきな姿

保健師たちは避難所を巡って被災者の健康状態などをチェックする
福島県南相馬市。若い女性の保健師たちが避難所を巡る姿がある。20代の彼女たちの明るい笑顔は被災した人たちに、そして現地の医療スタッフたちに元気を与える。福島弁で声をかけられると、被災した人たちはほっと安心しているようだ。

一人の20代の保健師に尋ねた。若い女性たちが放射線の健康被害を懸念して県外に移っていく中、どうして残るのか、と。
「仕事ですから」。少し戸惑いながらも清々しい笑顔で答えてくれた。健康被害がないといわれるレベルと認識していても、周りが大騒ぎする姿を見るにつけ、不安を抱かずにはいられないはずだ。しかしこの地に残って、医療を必要とする人たちがいる以上、与えられた使命を懸命に果たそうとしている。


緊急被ばく医療に取り組む福島医科大では震災直後、浮き足立っていた。そんな中、長崎大学は医師や看護師たちを派遣。ともに福島第一原発の作業員たちの被ばくに対応する中、医療体制を整えるところまでたどり着いた。搬送された作業員たちを診療する際、長崎大学病院の医師や看護師たちが率先してい診療に取り組む姿を見せ、現場を勇気づけた。専門的な知識とノウハウ、そして被爆地長崎からの協力が一体感を生み出し、信頼を築いている。

どの現場でも使命感を持って、ひたむきに医療にのぞむスタッフの姿勢。医療の原点がここにある。

2011年4月13日水曜日

医師たちの熱い思い 医療支援の意義

「現場の保健師さんや医師、医療スタッフの声が一番大事ではないでしょうか。われわれはあくまで支援ですので、この地域の医療が自立するお手伝いできているのですから」。4月4日の南相馬市での初会議。長崎大学病院の安岡彰副院長はこう言った。




長崎県チームの思いは熱かった。「避難所では生活できない。避難所にいたお年寄りたちが過酷な環境で生活できないから、自宅に戻ってきている」と県医師会チームとして参加した井上病院(長崎市)の井上健一郎院長は強調。安岡副院長も「避難所に移動させて状態を悪化させるリスクが、騒がれている放射線の健康被害よりはるかに上」と懸念する。


入院を必要とするお年寄りが出てくるたび、壁にぶち当たった。政府は30km圏内での入院を認めていない。圏内にある病院は通院のみ。入院機能をどうするかが、この地域の大きな課題だ。


こうした中、少しずつ連携が生み出された。4月上旬の会議で少なかった会議の参加者も増えていき、南相馬市長寿政策課など介護サービスの分野でも職員たちが参加するようになった。医療のほかに介護サービスのニーズが高いと判断したからだ。歯科診療も地元の歯科医師会に働き掛け、少しずつ輪を広げている。


この方針や思いは第2陣に引き継がれている。今、現地で歯科医療に取り組む2チームも避難所などで、表に出てこない歯科のニーズを実感しているようだ。長崎県チームの熱い思いが周りを突き動かしているようにも見える。スムーズに事が運んでいるわけではないが、現場は一つ一つをどうにかしようと動き始めている。


4月12日。長崎大学病院は5月末までの支援体制を通知し、準備を整えている。遠く離れた地から福島県の地域医療の再生を強く望んでいる。いつでも福島県の要請に応えられるように。

2011年4月12日火曜日

長崎新聞に活動紹介 

現地の長崎県医療チームの活動を伝える長崎新聞
福島県で在宅医療に取り組んでいる長崎大学病院の医療チームの活動の様子が4月12日付長崎新聞に掲載された。現在、中村英樹医師と張川恭子看護師が第2陣として、福島県南相馬市を訪れている。


記事は同行ルポで、30km圏内で独り暮らしするお年寄りの様子やこの地域での放射線量がどのくらいかを説明する中村医師の様子などが伝えられている。


福島第一原発に緊急事態が発生した場合に備えて設けられた同心円の20km圏内の「避難指示区域」と30km圏内の「屋内退避区域」。11日、政府はあらたに被爆線量が高い地域を「計画的避難区域」に設定する方針を明らかにした。新聞やテレビ報道などによると、1年間の積算線量が20mSvに達するおそれがあるためで、飯館村や南相馬市の一部などが入る。1ヵ月後をめどに避難を開始するそうだ。また、緊急時に屋内退避や避難する「緊急時避難準備区域」も設ける。


長期化を示唆する今回の発表。緊急時避難区域に残る在宅のお年寄りの医療が今後課題になりそうだ。

第1陣が病院長に活動報告 「継続的な活動を」

現地の様子を報告する安岡副院長(右から2人目)
福島県南相馬市などで地域医療に取り組んだ長崎大学病院チームが4月11日、河野茂病院長に現地での活動を報告。現地の被災状況とともに、今後の医療活動に必要なものなどを具体的に提言した。

長崎大学病院は医師一人、看護師一人で構成する在宅医療担当チームと歯科担当医師の合わせて2チーム。第一陣として、在宅医療担当に安岡彰副院長と鉦打健看護師、歯科担当に齋藤俊行教授を派遣した。5月末まで継続的に交代で派遣する。

避難所を中心に歯科診療に取り組んだ齋藤教授は「紙コップで口をすすいでいる。プラスチックのコップや入れ歯を入れる容器が不足していた」と感想を述べた。在宅医療を担当した安岡副院長は「災害弱者が在宅に残っているのが現状。介護サービスを必要としているが、地元の訪問看護や訪問介護に取り組めるマンパワーが足りない」とした上で「できるだけ地元の医師や医療機関につなげていきたいのだが…」と苦悩の色をにじませる。

また休日や今後の連休での活動について、安岡副院長は「被災している人たちには休日はない。自治体が休みだから医療活動も休みにするのでは被災者の信用を失う。できるだけ継続した支援が必要だと感じている」。そう強調した。

2011年4月11日月曜日

震災から1カ月 職員ら黙祷

黙祷する長崎大学病院の職員
東日本大震災からちょうど1カ月。午後2時46分、長崎大学病院では職員らが黙祷して、犠牲者の冥福を祈った。

共同通信の配信によると、今日までに亡くなった人、行方不明者は2万7000人以上。長崎大学病院の医療チームが支援で訪れている福島県では死者1226人、行方不明者3236人という。広域の県にまたがる震災の避難者は14万人に上る。

残念ながら、福島第一原発の現場も終息のめどは立っていない。余震の中、医療活動に取り組むスタッフたちを案じつつ、長崎大学病院は支援を惜しまない。河野茂病院長は会議の席で「継続的に支援していきたい。精神科の医師や保健学科でも派遣の要望があれば協力したい」。病院幹部を前にこう話した。

2011年4月10日日曜日

放射線を正しく怖がる 地道に誠実に講演活動

放射線を正しく理解してもらうために講演する高村教授

一人一人の質問に丁寧に答える
「放射線を正しく怖がってください」。長崎大学医学部の高村昇教授はチェルノブイリ原発事故の被害の実態を示しながら、そう呼びかけた。

この一カ月間、福島県の放射線健康リスク管理アドバイザーとして、長崎大学大学院医歯薬総合学科長の山下俊一教授とともに県内各地を駆け巡る。住民や医療従事者たちを対象に講演会を開き、これまでに10数件以上の講師を務めてきた。1日に数件掛け持ちすることもある。

「最初のころは殺気立っていた。でも住民の人たちが正しく理解してくれて、受け入れてくれるようになった」。何が正しくて何が間違っているのか、国も自治体も信用できなくなっている住民たち。何に怯えて何を受け入れればいいのか、その判断ができずに不満やいらだちが鬱積している。高村教授はそれを十分に理解し、取り除くのが役割だという。最も大事にしているのは、信頼関係を築くことだ。

4月8日、郡山市で医療従事者や保育士を対象にした講演会。「私たちは不安でしょうがない。先生は大丈夫だというけど、本当にそうか?」。講演を終えて、厳しい口調で質問する場面もあった。福島第一原発から約50km離れたこの地でも、放射線の健康被害への不安をぬぐえていない。高村教授は住民の不安を十分受け止めようと、努めて穏やかに話す。

チェルノブイリの事故は内部被ばくが問題となった。幼い子どもたちが牛乳をはじめとして大量の放射線で汚染された食物を長年にわたって摂取し続け、甲状腺がんを発症した。

今、福島県の住民たちは、原発から少しずつ漏れ出ている空気中の放射性物質の身体へ影響を懸念している。もちろん爆発して大量の放射線が一気に広がる不安も否めない。「福島県産の野菜や魚は食べて大丈夫か?」「子どもたちを庭で遊ばせていいのか?」と日常生活の中で、どう放射線とつき合っていいのかも迷っている。

一つ確実なことは、放射性物質には半減期がある。ヨウ素で8日、セシウムは30年。実際に福島県内の放射線測定値も1カ月前に比べて、減少している。このまま何もなく、原発が沈静化に向かうなら、これまでの生活を取り戻せるのだ。


講演後も高村教授のところには、質問する人が数人並んだ。高村教授は丁寧に答えている。心意を伝えるのは本当に難しい。それでも地道に、真摯に、誠実に向き合おうとしている。

2011年4月8日金曜日

郡山駅にて

郡山駅周辺には給水車があった
第1陣の残り数日の活躍を祈りつつ、私は帰路についた。JR郡山駅からリムジンバスで福島空港へ。大阪・伊丹空港を経由して長崎に帰る。

郡山は福島第一原発の西方約40kmにある。JR郡山駅周辺は昨夜の地震の影響が見られた。無料給水車の姿もあり、ペットボトルを持参した人に配っているようだ。水の被ばく線量のモニタリング結果も添えて、安全であることを表示している。

閉店している店もまばらにあり、人通りは少ない。東北新幹線も東京から那須塩原までの区間しか開通していないため、那須塩原までの臨時バスが運行。列をつくって人々が並んでいる。

入学式だったのだろうか。真新しい制服を身につけた女子高生が母親と一緒にいる姿があちらこちらで見られた。

福島にも春の足音が近づいている。ここ数日、暖かい日が続いた。南相馬市ではうぐいすも鳴き始め、白もくれんがつぼみを膨らませている。昨日、南相馬市の保健師が「桜が咲くのは来週あたりかな」とつぶやいていた。郡山に向かう途中、真っ白の根雪が残る会津の山々。安岡彰副院長が初日に「観光だったら、どんなに素晴らしい場所だろうね」と話していた。

南相馬市でお世話になった保健師と電話で話した。「3月11日以来、赤ちゃんが南相馬市で生まれたんですよ。昨夜お産がありました」と喜びの声を伝えてくれた。福島県は必ず復興できると信じている。

地震

午後11時32分ごろ、地震があった。宮城県沖で発生。福島市は震度5弱。津波警報が出ていた。

私は夕方、安岡彰副院長たちと分かれて一人福島市内に移動。福島市のホテル2階の一室でベッドに横たわり、資料を読みながらうとうとしていた。小刻みな揺れを感じ、目が覚めた。直後、携帯の警報音が鳴った。1、2秒後、大きく長い揺れが続いた。頭上に落ちてくる物がないかどうか確認しながら、ダウンの袖に腕を通しドア近くまで駆けつけた。

福島滞在中、何があってもすぐに外に駆け出せるような格好をするようにしていた。地震がおさまったころ、廊下をのぞいたが避難する気配はない。気がついたら、ダウンは逆さまに着ていた。消防車が1、2台駆け抜けて行く音が聞こえた。


福島第一原発の様子が気になったが、テレビでは「現時点で異常はない」と話している。同時に、これまで出会った避難所の人たちのことも気になった。

2011年4月7日木曜日

嬉しい知らせ

今、嬉しい知らせが届いた。

相馬市に避難している南相馬市の住民の避難所で、水が流れるようになり、トイレが各階使えるようになったという一報。医療を必要せずに避難生活を送れるようにするには、衛生や生活環境を整えてあげることだ。

南相馬市の職員たちが工事したという。本当によかったと思う。

現場の声が伝わらない 過酷な避難所生活

トイレに向かうお年寄り

玄関先に設置された仮設トイレ

ブルーシートだけが敷かれた教室
南相馬市の住民が入っている相馬市の避難所。約550人が入っている。津波で家が流された人、命からがら逃げてきた人が多い。廃校を使っているので、屋内では水道は使えず、唯一外にあるだけで、飲み水もその水を使っている。玄関先にある仮設トイレを利用するために、お年寄りは階段を上り下りしなければならない。そのため、水分補給を控えている人が多いという。各部屋にはブルーシートが敷かれただけ。少し座っているだけで底冷えがしてくる。


カメラを抱えていると、「新聞記者か?この状況をみんなに知らせてくれ」と過酷な環境を伝えるよう、男性が近寄ってきた。


津波被害の様子は、岩手県などを中心にテレビに流れる。しかし福島県の津波被害の状況はテレビでも新聞でも見ることはほとんどない。福島第一原発30km圏内への立ち入りを報道機関も自粛している。津波被害の状況、医療従事者の不足、避難者の現在の過酷な生活、そして放射線による風評被害、と問題が山積し、この地域の声や窮状が伝わっていない。

避難所横にある体育館には段ボールが山積みになっている。それは相馬市の物資だという。南相馬市の人たちの手には渡らない。自治体の格差が生まれている。

男性はこう話した。「津波で何もかも流された。最初のころ、南相馬市からの配給は服が1人1枚だけ。寒さもしのげないから、相馬市の方にも並んだんだ。そしたら、持ってけって相馬市の職員が5枚もたせてくれた…ありがたいな」。

食事の炊き出しには横浜からボランティアが入り、相馬市の高校生が手伝う光景も。現場では助け合う姿もある。

最後に、男性は目に涙を浮かべながらこう言った。「ここだけじゃないっぺ。ほかもこんなんだもんな」。単に「避難」というのは簡単だ。もう1カ月近く経とうとしている。国は現場の避難している人たちがどんな思いで、どんな生活をしているか、そして何を必要としているか、もっと耳を傾けてほしい。人道的にも強くそう思う。

2011年4月6日水曜日

相馬市の避難所で歯科診療

相馬市の避難所で歯科診療をする齋藤教授
廃校を避難所として利用
4月6日、長崎大学病院の歯科医、齋藤俊行教授は相馬市にある避難所を訪問した。避難所は30km圏外にあり、廃校になった相馬女子高を利用。南相馬市から来た約550人が入っており、相馬市内で最も大きい。

3階建ての建物は集落ごとに部屋を使っており、幼い子供や小学生たちもいる。お年寄りも多く、一つの町が避難所に移動してきたようだ。しかし廃校だったため、水道が使えず電気も蛍光灯が外されている部屋が大半。仮設トイレも玄関先に設置された7カ所。衛生環境も整っているとは言いがたい。階段には簡単な椅子式のエレベーターがあるが、杖を付いたお年寄りが階段を上り下りをしている状況だ。

現在、医療は全日本病院協会が中心となって、大分などからチームが支援している。2階の1室に設けられた診察室では、10人ほどの患者が順番を待っていた。

今回の齋藤教授の訪問は歓迎された。齋藤教授が避難所の各部屋を回りながら診療を担当。「歯が痛い方や入れ歯の不都合がある方はいませんか?」。大きな声で呼びかけても返事はない。個別に話しかけると「じゃあお願い」と手が挙がる。

福島県の担当者は診療をサポートする歯科衛生士が圧倒的に少ないことを訴える。「歯科衛生士は若い女性が多く、放射線の影響を心配して、みんな県外に出て行ってしまった。口の中をチェックして、診察が必要な人たちをピックアップする作業が必要。確保が急務」と窮状を話す。確保に奔走しているが、めどは立っていない。





チームワーク 医療活動を支える心強い存在

初日にあった長崎大学病院チームのミーティング
自衛隊の救急車両
救急車両で移動する長崎大学病院チーム
医療活動が効率よく安全に進むよう、みんなが協力し合っている。自衛隊や地元の保健師たち、消防局、各地から支援に訪れた救命救急士。さまざまな人たちが関わっている。

高齢者宅への巡回は自衛隊の先導で、医師たちは自衛隊の救急車両に乗って現場に向かう。自衛隊が福島第一原発に万一の事態が発生したとき、安全を確保してくれる。

私たちの安全を守るだけでない。救命救急士の資格を持つ隊員が中心で、血圧や体温などを測るバイタルチェックを担当。鉦打健看護師は「本当に自衛隊の方たちには頭が下がる。大変さをまったく出さずに患者さんにも、ぼくたちにも紳士的」と感心しきり。自衛隊は今回の在宅医療チームを独自に編成し、山間部なども担当した。救急車両にはAEDや薬剤などが積み込まれ、救急の事態に備える。医療の面でも心強い存在だ。

福島弁でお年寄りたちに優しく語りかけて、事情を説明するのが保健師。お年寄りたちが医療活動を受け入れてくれるよう働きかけ、ニーズを丁寧に聞き出し、個別に対応している。これからの地域医療の再生に向けて大切な役割を担う。近隣の茨城県ひたちなか市からも救命救急士が参加。「茨城も震災がひと段落したので、こちらの支援にきました」と話す。

このチームワークが医療活動を支えている。

2011年4月5日火曜日

「長崎大学」のウィンドブレーカー効果

「長崎大学」の文字が書かれたウィンドブレーカー
「長崎大学? ええ!長崎から来たの?」
避難所などでよく言われる。背中に「長崎大学」と書かれた蛍光色のウィンドブレーカー。

これがきっかけで住民の皆さんと話をする。そして、ほとんどの方が「ありがとう」と涙ぐむ。南相馬市に来て、目を真っ赤にされた方をどれだけ見ただろうか。

被爆地長崎だからこそ、福島の人たちを勇気づけることができる。福島第1原発の1日も早い終息、ただただ願うばかりだ。

食品の配給に長蛇の列



数百mの長蛇の列。車をぐるっと取り囲んで並んでいる
ミネラルウォーターなどを配布



活動の拠点にしている原町保健センターは災害ボランティアセンターの近くにある。午前9時半ごろ、災害ボランティアセンターに隣接する施設に人が並び始めた。屋内退避して配給を待つ人たちのようだ。

配給は毎週火曜と金曜の2回。1世帯にミネラルウォーターが入った2ℓのペットボトル2本とインスタントラーメン、野菜などを配っている。時間は正午から午後3時まで。

配布を始めて約40分後、広い駐車場は満車状態になった。道路には車列ができた。配給する施設の玄関近くにも数百mの長蛇の列。女性は「もう1時間半も並んでいる」と心配な様子。20代、30代ぐらいの若い世代や子連れで並ぶ親たちも。3世帯分を持ち帰る女性の姿もあった。


「長崎からやってきました」 在宅診療で安心を与える

地元の保健師や自衛隊と協力して在宅医療に取り組む長崎大学病院チーム
巡回して安心を与える
「食事はちゃんと取られていますか?」。長崎大学病院の鉦打健看護師は話しかけた。
「はい。自分でやっています」
「食材はどうやって?」
「冷蔵庫にあるものを探し出して食べています」
脳梗塞の後遺症が少し残る80歳の女性はこう言った。歩くのもゆっくりやっとだが、健康状態はいいようだ。

南相馬市で在宅医療がスタート。長崎県医師会と福島県立医科大学の3チームに分かれて、地元の保健師や自衛隊とともに巡回している。


「ここは30km圏内で誰も来てくれないけど、先生たちはわざわざ長崎からやってきてくれたんだよ。ありがたいね」。南相馬市の保健師、大石万里子さんは女性の背中をさすり、声を詰まらせてこう言った。女性はうっすらと涙を浮かべた。


緊急搬送するような事態にはまだ出会っていない。しかし地震を機に、介護サービスがぷっつり途絶えた。医師たちも少しずつ戻りつつあり、4月4日から3件の民間の病院が外来の診療を開始した。今、必要なのは在宅での介護サービスを支援するマンパワーなのかもしれない。

それと「安心感」。「だれも来てくれないのではないか」「見捨てられたのでは」という不安があるようだ。女性の涙がすべてを語っている。


診察が終わりかけたころ、女性が庭を指差してこう言った。
「水仙が2つほど咲いたんですが、外に出てもいいですか?」と。
安岡副院長は「何時間も外に出ることは勧めませんが、庭先に少し出るくらい大丈夫です。我慢している方がむしろお体に悪い。気晴らしに草むしりしてもいいですよ」と明るく笑顔で話した。


コンビニは品薄

閉店しているコンビニ
コンビニ玄関に張られた紙
南相馬市を運転していると、歩いている人を見かけない。
車が往来するだけ。大手のファストフード店も個人商店もほとんど空いていない。

ホテル近くのコンビニには「今般の地震の影響により、あらゆる商品の供給が滞っております」の張り紙。品物が入ってこないため閉店しているようだ。

ホテルのフロントで尋ねると、「この周辺の店は営業していないです。うわさでコンビニは2軒だけやってると聞きましたが」と話してくれた。

車を走らせていると、1軒空いているコンビニを見つけた。陳列台にはあまり食料が並んでいない。品物がなくなり次第閉店するようだ。カップ麺は1人1個まで。その隣には大量のバナナが並んでいた。

医療だけではない。町の機能が低下している。徐々に回復しつつあるようだが、長期化すればするほど、医療と同じように考えなければいけない。そんな気がした。

2011年4月4日月曜日

誤嚥性肺炎を防ぐ 避難所で歯科診療

お年寄りの歯科診療をする齋藤教授
「ここは痛くない?」。耳元に顔を寄せて、ゆっくりお年寄りに話しかける長崎大学病院の齋藤俊行教授(予防歯科)。地域の歯科医療を支援するため、南相馬市内の原町第1小学校の避難所を訪れた。

この小学校は福島第一原発から20km〜30km圏内にある唯一の避難所で、お年寄りが大半。ほかの避難所は30km圏外にあり、若者や子供たちの多くが利用しているという。避難所では段ボールで仕切られたスペースに布団や毛布を敷いて、避難生活を送っている。

水蒸気爆発が起きた3月12日を境に、妻と避難所で生活している81歳の男性は入れ歯の不具合を訴えた。「入れ歯に付いた菌をこうやってきれいに落とさんと、肺に入って肺炎になるよ」。齋藤教授が入れ歯を洗いながら説明すると、「ほぉ」と深くうなづいた。

1995年の阪神大震災では多くのお年寄りが口の中をきれいに保てず、あやまって肺に菌が入り込み誤嚥性肺炎で命を落とした。

この日、齋藤教授は9人を診療。診療を南相馬市の保健師や歯科衛生師がサポートしているが、ニーズは未知数だ。「先生お一人では限界がある。入れ歯を洗ったり水を変えたりするのにどうしても手間がかかる。どうにかして体制を考えたい」。診療後のミーティングで保健師が言った。

津波に飲み込まれた施設

散乱したゴルフセットと車

施設の部屋の中
横転した車、半分欠けた食器、入所者らしき小さな上履き。割れたガラス窓から、泥にまみれたカーテンだけが風に揺れる。かつてここにはお年寄りたちの生活の場があった。

南相馬市原町区にあった介護老人保健施設は一瞬にして津波に飲み込まれた。福島第一原発から20kmから30kmの圏内にあり、海岸線からは1600mほど離れている。

目の前に広がる灰色一色の世界。想像を絶する光景にただ言葉を失った。「こんな近くに海が見えることはありません。もっと遠くにあったんです」と福島県の担当者は遠くを指差しながら説明した。

被害地を離れる車内では重い空気が流れ、誰も言葉を切り出せなかった。

この町には救いの手を待っている人たちが大勢いる。独りでは逃げ出せないお年寄りたちもたくさんいる。

Think GloballyAct Locally (シンク グローバリー、アクト ローカリー)
地球規模で考え、足元から行動せよ。安岡彰副院長が昨日話していた言葉が頭をよぎった。

地元紙に掲載

4月4日付の福島民友新聞
活動初日。快晴で迎えた。しかし風は冷たい。地元紙の福島民友新聞などに本日からの在宅診療開始の記事が掲載されていた。

午後8時半、ホテルを出発。これから南相馬市に向かう。

2011年4月3日日曜日

自衛隊などと連携して巡回

在宅診療について話し合った会議
医療器具や薬剤などを確認する看護師たち


「チーム長崎」として福島県に入った長崎大学病院第1陣は3日午後、福島県や福島県立医科大学、自衛隊、消防機関の関係機関と連携して、福島第1原発から20〜30km圏内の在宅診療に臨むことを確認した。4日からの実施を前に、関係者約40人が集まり、会議を開いた。

福島県によると、圏内には寝たきりなどで自宅に残るお年寄りが約160人いるという。ほかにも在宅診療を必要とする人たちは350人に上る。4月3日現在、機能している圏内の病院2カ所では外来診療を中心とし、入院の必要な患者さんは既に圏外に転院している。

長崎大学病院は同日福島入りした長崎県医師会のチームとともに南相馬市を担当する。自衛隊などが車両の運転から薬剤の調達まで全面的に協力。効率よく巡回して治療に取り組むとともに、現状の把握に努める。

長崎から東京、那須塩原へ

午前8時。長崎大学病院第1陣チームの安岡彰副院長と看護師の鉦打健さんは空路で東京に向かった。「お父さん、行ってらっしゃい」。家族の笑顔に見送られながら長崎空港を出発。午前9時半、羽田空港に降り立った。

チームはタクシーで東京駅へ。朗らかな雰囲気のタクシーの運転手さんが「どちらへ行かれるんですか?」と聞いてきた。安岡副院長が「福島です。医療支援に行きます」と答えると
、「ええ!危ないですよ…」と驚きの声を上げた。先日、運転手さんは仙台に行ってきたそうだが、「福島=危険」のイメージは依然としてあるようだ。

東京駅には高速道路を使ってわずか10分で到着。駅では節電のため、エスカレータが使用できず、ホームへの荷物の運び込みにひと苦労した。

那須塩原には正午に到着予定。そこからレンタカーで福島入りする。

2011年4月1日金曜日

地域医療支援の第1陣出発へ

現地の状況や活動などを打ち合わせする第1陣のメンバー
4月3日から福島県に派遣される医療支援の第1陣のメンバーが1日、長崎大学病院の河野茂病院長とミーティングを開き、現地の状況などを確認した。

チームは医師1人、看護師1人で編成。長崎大学病院からは2チームを派遣し、それぞれ一般の診療と歯科診療と役割を分担する。第1陣は一般医療の担当として安岡彰氏と看護師の鉦打(かねうち)健氏、歯科診療担当に予防歯科教授の齋藤俊行氏が参加する。4月3日に福島入りし、10日までの1週間、医療を必要とする地域の自宅などを回って診療する予定。

歯科診療を担当する齋藤教授は「最初は避難所を回って、それから安岡先生から在宅の状況を聞きながら、そちらを回るようにできれば」と話した。

被ばく医療支援の放射線技師が報告

河野病院長に報告する奥野放射線技師(右)
福島県立医科大学を拠点に被ばく医療支援で活動した長崎大学病院の診療放射線技師、奥野浩二氏(47)が4月1日、河野茂病院長に報告した。

同氏は先月17日に福島入り。約2週間という派遣した医療スタッフの中で最も長い活動を終えて、31日に長崎に帰ってきた。

報告の中で「福島には2週間いたが、被ばく線量を測っても32μSv。健康被害を及ぼすほどではない」と話した。河野病院長は「今度、原発近くの南相馬市などにも派遣するが、状況を聞いて安心した」と話した。

福島県に医療スタッフ派遣 出発式


決意を語る安岡副院長 

 長崎大学は4月3日から約2カ月にわたって、県、県医師会とともに、福島県に医療支援チームを交代で派遣する。福島県では放射線汚染の風評被害が広がる中、医療スタッフが不足。医療を必要とするお年寄りらが、診療や手当てを受けられない深刻な事態を招いている。

長崎大学などは福島県の要請を受けて、すぐに地域医療の支援チームを編成、院内で有志を募った。医師と看護師の2人1チームが1週間交代で、南相馬市の被災者の自宅などを巡る予定。歯科医師も派遣して、高齢世帯の多い被災地に必要な医療を適切に提供していく

出発に先立ち3月31日、第1陣で派遣される長崎大学病院副院長、安岡彰教授らは知事を訪問。「放射線の怖さや安全なレベルを正しく理解している被爆地の医師として、現地の不安を取り除きたい」と決意を語った。知事は「福島県は今なお極めて深刻な事態だが、専門スタッフによる新たな支援体制の構築である。強く期待している」と激励。長崎大学の片峰茂学長も「今回は風評被害を突破する最大の活動。先駆的な活動として、ノウハウをつないでほしい」と期待を込めた。