2016年5月17日火曜日

阿蘇医療センターにて

  阿蘇医療センターの入り口で、一人の高齢の女性が大きな紙袋2つを抱えてタクシーから降りた。この日は土曜日。正面玄関は閉まり、女性はDMAT隊員たちの活動拠点となっているADRO事務局へと向かって歩き出した。私は思わず声を掛けた。阿蘇医療センターに100歳を超える母親が入院しているという。重たい荷物はその入院のためのものだった。

 時間外入口の救急外来へ案内した。「ここでいいですよ。ありがとうございました」と女性は半分抱えた大きな紙袋を引き取ろうとした。一人で持つにはあまりに重過ぎた。一緒にエレベーターへと向かい、歩きながら少し話をした。

 4月14日。母親が退院してわずか3日目だった。大きな揺れに襲われ、72歳の女性は100歳を超える母親とともに、自宅で恐怖をしのいだという。何度となく襲ってくる揺れに不安な日々を過ごした。 そして深夜の本震。退院したばかりの母親を連れてとうとう体育館へ避難した。「近所の方たちに助けれて避難しました。私は恵まれている方ですよ」。しかし避難所は寒かった。母親は体調を崩し、再び入院することになったという。避難所ではインフルエンザが流行っているそうだ。

 病室には母親が静かに寝ていた。別れを告げると、女性は頭を深々と下げ、その目にはうっすらと涙が見えた。





 


本院感染症対策チーム

 4月23日早朝、第一陣は熊本市内のミッションを終えて、阿蘇医療センターに向かった。センターにはADRO(阿蘇地区災害保健医療復興連絡会議)が設置され、阿蘇地区周辺の医療を統括していた。長崎大学病院第一陣は次の陣が動けるよう、その拠点づくりを目指した。 「ノロウイルスの検査キットを熊本県庁に寄った際、受け取ってくるように」。第一陣の山下医師が熊本県の指示を受け、第二陣に伝えた。

 センターに到着すると、救急外来の入り口には「ノロウイルスが流行っているため、患者さんは申し出てください」という張り紙があった。 院内のトイレにも「このトイレはノロウィルスの患者さん用です。一般の方は使用しないように」とも。張り紙から漂う物々しさをよそに、院内は落ち着き払っていた。

 第一陣、第二陣は当初、救急外来への対応を担った。しかし、状況は一変した。センター内で感染症対策に精通した医師がいないか、急きょ呼び掛けられた。第二陣の浜田久之医師はすぐに手を挙げ、長崎大学病院に感染症対策チームの応援を要請した。

 長崎大学、長崎大学病院は感染症研究や感染症対策などで実績がある。長崎という土地は古くから東南アジアを拠点としたオランダや中国の貿易船を受け入れてきた。国際都市にとって熱帯地方から持ち込まれてくる感染症への対策は不可欠だった。155年前に開院した長崎大学病院の前身、養生所もその一端を担っていた。今も脈々と受け継がれている。

 感染制御教育センターの泉川公一センター長が阿蘇入りしたのは、翌日4月24日。この日の新聞各紙には「南阿蘇村 ノロウイルス25人 避難所で集団感染か」の見出しが大きく打ち出された。

2016年5月8日日曜日

ロジの仕事

 今回の医療支援チームに業務調整員が構成されている。業務調整員は医療活動以外のすべてのことをこなす役割を担い、「ロジ」つまり「ロジスティクス」といわれる。日本語では「兵站」。つまり最前線が活動しやすい環境をつくる後方支援の一つである。事務的なパソコンの打ち込みから宿の手配、交通情報の収集などその仕事の範囲は広い。

  今回の医療支援チーム第一陣に参加した薬剤師の安藝敬生さんはDMATでも訓練を受け、今回は地震発生直後の熊本で支援活動を経験した。2回目の熊本入りとなる安藝さんはチームのムードメーカー的な存在だった。「業務調整員はメンバーの体調も気にしないといけないですよ。休んでいいよと目配りするのも大事な役割」と話す。メンバーが業務に集中できるように、いつも様子を気に掛け心を配っていた。

 山下和範医師はいう。「災害医療の現場では医師は医師の仕事だけ、看護師は看護師の仕事だけというわけにはいかない。誰もが臨機応変にロジをこなせる必要がある」。避難所を巡って診療活動をするだけが支援ではない。それを支える仕事もまたおろそかにできないと強調する。

業務調整をする安藝さん(右)