2016年5月17日火曜日

阿蘇医療センターにて

  阿蘇医療センターの入り口で、一人の高齢の女性が大きな紙袋2つを抱えてタクシーから降りた。この日は土曜日。正面玄関は閉まり、女性はDMAT隊員たちの活動拠点となっているADRO事務局へと向かって歩き出した。私は思わず声を掛けた。阿蘇医療センターに100歳を超える母親が入院しているという。重たい荷物はその入院のためのものだった。

 時間外入口の救急外来へ案内した。「ここでいいですよ。ありがとうございました」と女性は半分抱えた大きな紙袋を引き取ろうとした。一人で持つにはあまりに重過ぎた。一緒にエレベーターへと向かい、歩きながら少し話をした。

 4月14日。母親が退院してわずか3日目だった。大きな揺れに襲われ、72歳の女性は100歳を超える母親とともに、自宅で恐怖をしのいだという。何度となく襲ってくる揺れに不安な日々を過ごした。 そして深夜の本震。退院したばかりの母親を連れてとうとう体育館へ避難した。「近所の方たちに助けれて避難しました。私は恵まれている方ですよ」。しかし避難所は寒かった。母親は体調を崩し、再び入院することになったという。避難所ではインフルエンザが流行っているそうだ。

 病室には母親が静かに寝ていた。別れを告げると、女性は頭を深々と下げ、その目にはうっすらと涙が見えた。





 


本院感染症対策チーム

 4月23日早朝、第一陣は熊本市内のミッションを終えて、阿蘇医療センターに向かった。センターにはADRO(阿蘇地区災害保健医療復興連絡会議)が設置され、阿蘇地区周辺の医療を統括していた。長崎大学病院第一陣は次の陣が動けるよう、その拠点づくりを目指した。 「ノロウイルスの検査キットを熊本県庁に寄った際、受け取ってくるように」。第一陣の山下医師が熊本県の指示を受け、第二陣に伝えた。

 センターに到着すると、救急外来の入り口には「ノロウイルスが流行っているため、患者さんは申し出てください」という張り紙があった。 院内のトイレにも「このトイレはノロウィルスの患者さん用です。一般の方は使用しないように」とも。張り紙から漂う物々しさをよそに、院内は落ち着き払っていた。

 第一陣、第二陣は当初、救急外来への対応を担った。しかし、状況は一変した。センター内で感染症対策に精通した医師がいないか、急きょ呼び掛けられた。第二陣の浜田久之医師はすぐに手を挙げ、長崎大学病院に感染症対策チームの応援を要請した。

 長崎大学、長崎大学病院は感染症研究や感染症対策などで実績がある。長崎という土地は古くから東南アジアを拠点としたオランダや中国の貿易船を受け入れてきた。国際都市にとって熱帯地方から持ち込まれてくる感染症への対策は不可欠だった。155年前に開院した長崎大学病院の前身、養生所もその一端を担っていた。今も脈々と受け継がれている。

 感染制御教育センターの泉川公一センター長が阿蘇入りしたのは、翌日4月24日。この日の新聞各紙には「南阿蘇村 ノロウイルス25人 避難所で集団感染か」の見出しが大きく打ち出された。

2016年5月8日日曜日

ロジの仕事

 今回の医療支援チームに業務調整員が構成されている。業務調整員は医療活動以外のすべてのことをこなす役割を担い、「ロジ」つまり「ロジスティクス」といわれる。日本語では「兵站」。つまり最前線が活動しやすい環境をつくる後方支援の一つである。事務的なパソコンの打ち込みから宿の手配、交通情報の収集などその仕事の範囲は広い。

  今回の医療支援チーム第一陣に参加した薬剤師の安藝敬生さんはDMATでも訓練を受け、今回は地震発生直後の熊本で支援活動を経験した。2回目の熊本入りとなる安藝さんはチームのムードメーカー的な存在だった。「業務調整員はメンバーの体調も気にしないといけないですよ。休んでいいよと目配りするのも大事な役割」と話す。メンバーが業務に集中できるように、いつも様子を気に掛け心を配っていた。

 山下和範医師はいう。「災害医療の現場では医師は医師の仕事だけ、看護師は看護師の仕事だけというわけにはいかない。誰もが臨機応変にロジをこなせる必要がある」。避難所を巡って診療活動をするだけが支援ではない。それを支える仕事もまたおろそかにできないと強調する。

業務調整をする安藝さん(右)

2016年4月28日木曜日

車中泊の現状 

  地鳴りという言葉をあらためて思い知った。地の底からドーンと突き上げる音は落雷の音に似ている。未明から何度となくそんなことを思いながら寝袋の中にい た。本院第一陣は熊本大学病院の厚意で会議室を借り、宿泊施設にした。私は天井を見上げながら、就寝中に建物内にいる恐怖や不安に思いを巡らせていた。

  21日夜開かれた自治体や医師会などの関係者会議。今回の地震で課題の一つとされたのが車中泊の多さである。住民たちは自宅は壊れていないにしても、いつ 倒壊するか分からない恐怖を抱えている。夜になると、大型イベント施設や空き地、学校のグラウンドに車が所狭しと並ぶという。昼間は仕事などで外に行き、 夜になると車で寝泊まりをする、そんな避難生活を余儀なくされている。


 会議ではそういう人たちの医療ニーズをどう把握するかも焦点だった。ちょうど報道によって急性肺血栓塞栓症、いわゆるエコノ ミークラス症候群が注目され、その予防が急がれていた。現地のラジオの情報では予防のためのストッキング配布など、自治体の動きがみられ、エコー検査の導入なども検討された。

   「ここは夜になれば車が集まってくる」。キャンプカーで家族とともに生活している女性がこう話した。がらんとした空き地は私有地だが、震災後、多くの車 が道路にあふれたため、敷地を開放したそうだ。「もう夜は家で寝れない。怖くて」。女性の自宅もかろうじて倒壊を免れたが、部屋の中は家具が倒れて散乱し ているとい う。「もうどうしたらいいのか…」と遠くを見つめた。

 こうした車中泊生活で一番困っているのはトイ レ。目の前にはコンビニエンスストアやホームセンターがある。しかし、下水が流れないために貸してもらえないという。車で約10分離れた病院まで向かうそうだ。この日、自衛隊の車両が空き地にやってきた。トイレ3基を設置するために。地震からちょうど1週間だった。






看護師チーム 避難所を巡回

 第1陣で派遣された看護師2人は22日午後から、避難所の医療ニーズ調査へ出かけた。慣れない熊本市内の道をナビを頼りに運転。四カ所を巡回するため、一カ所に時間は掛けられない。「1カ所20分ぐらいだね」と足早に避難所となっている高校の体育館へと向かった。

  この日は快晴だった。避難所内を見渡せば、ポツポツと人がいるだけ。避難所の管理を担当する市職員の話によると、天気のよい日はほとんどの人たちが自宅に 帰って片づけをしているという。避難所周辺のアパートでは大きなゴミを出す姿をよく見かけた。二人は避難所のトイレの使用状況なども視察してつぶさに記 録、アルコールが置かれていない状況などを確認した。


 「お体はいかがですか?」。看護師の 大山祐介さんが布団の上に横たわる女性に声を掛けると、女性はそのままの状態で「リウマチが痛むんですよ」と話し始めた。親身に聞き入っていると、女性は 静かに身を起こして地震のときの話を始めた。もう一人の看護師、梁瀬由紀子さんは高齢の男性に歩み寄り、ゆっくりと大きな声で話し掛けていた。この男性は 避難所であっても、朝起きるといつもと変わらぬ、これまでの通り、きちんと身支度を整えるという。

  避難所中央には、おむつや粉ミルクなどの生活用品が置かれていた。一人の女性がその管理を任されている。地震以降、この体育館で避難生活を送っているそうだ。数年前に高齢の母を看取ってからずっと独り暮らしだった女性は地震のときも自宅に一人でいた。
  「ここで皆さんのお世話をしていたら気が紛れるんですよ」。目にうっすらと涙を浮かべて 「本当に感謝している。私は恵まれてますよ」と口元を押さえて話をしてくれた。

  体育館を出ると、ジャージに身を包んだ高校生5人が自転車に腰かけておしゃべりをしていた。この高校に通う部活動の仲間らしく、校内の片付けにきたとい う。「明日から炊き出しを手伝います」と元気よく話した。そう彼ら自身も自宅が被災している。自宅に帰ることはできても家具や電化製品で散乱した状態だそ うだ。別れ際、ある男子高校生がこう言った。「僕たちが元気を出さないといけないですよね」。力強いまなざしが印象に残った。



2016年4月27日水曜日

石垣が崩落 名城熊本城


  熊本市内の中心には名城、熊本城がある。今から400年以上も前、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、築城の名手といわれた加藤清正がもともとあった平山城を改築した。城の石垣は中世城郭の特徴と美観を残し、街のシンボルとなっていた。

 目の前に広がる光景は衝撃的だった。美しい反りを持つ石垣は無残に崩落。石垣中のぐり石が流出して、大神宮の屋根を押しつぶしていた。余震が続く中、さらなる崩壊が懸念されている。


 周辺を見渡せば、道路に入った亀裂、ゆがんだ建物が目につく。被災した街は路面電車も走り、車も人も行き交う。日常を取り戻したかのように見える街だが、どこかに緊張感が漂う。
  乱世にあって荒れ果てたこの土地を豊かに復興させた加藤清正の精神を受け継いでほしいと願う。
 

避難所の医療ニーズを探る

 長崎大学病院の医療支援チーム第一陣は、熊本市役所に設けられた「熊本市保健医療救護調整本部」で避難所情報のとりまとめを担った。刻々と変化していく医療ニーズを的確につかむため、指定されていない避難所の把握や避難所での聞き取り調査が求められた。

  第一陣リーダーの山下和範医師は、本部責任者の一人として関わった。救護班から寄せられた避難所の情報を手際よく まとめて分析する重要な任務である。これまでDMATとして災害医療に関わってきたスキルがあるからこそ、白羽の矢が立った。

  アセスメントシートの表記を統一し、全国から集まったDMATチームヘエリアを振り分けて調査を指示。調査後の情報をパソコンに打ち込んでいく。それから分析作業に入るが、ディスカッションも含めると、作業は夜9時まで及んだ。

 私たちの滞在中、全国から次々と集まる救護班約10~15チームが手分けして、約80カ所の避難所を巡回。約1日半掛けて避難 所の問題点を洗い出し、情報を整理した。地区ごとに色分けされ、一枚の「シート」になった。情報は今後の支援活動につなげられる。



市役所のロビーは避難所に

 私たちが熊本入りした平成28年4月21日、熊本市役所ロビーには多くの避難者があふれていた。床に毛布を敷いて横たわる高齢者の姿が方々に見られた。「昼食を配ります ので、正面玄関前にお並びください」。正午になると、アナウンスが館内に流れた。たちまち列ができ、食糧を配給された人はラップに包まれたおにぎり一個と飲み物を抱えて、それぞれの場所へと足早に戻っていった。

 建物前に止まった給水車は平戸市からやってきていた。3日交代で給水車を配備しているという。時間の経過とともに提供する水の量も少しずつ減ってきているそうだ。徐々に水道が復旧していることを物語る。






 











2016年4月21日木曜日

長崎大学病院 医療支援チーム第一陣出発

21日午前5時半、長崎大学病院の医療支援チーム第一陣が熊本に向けて出発した。メンバーは医師1人、看護師2人、薬剤師1人、事務1人の計5人。長崎県の要請を受けて、一昨日に編成した。

午前7時、長崎県の多比良港を出港。フェリーで熊本入りした。熊本は雨。警報も出ていた。車内のラジオでは大雨に伴う避難勧告が流れている。メンバーに緊張が走る。

これから熊本県庁に向かい、支援先が決まる。



2011年6月28日火曜日

福島県の被災地を視察

家の土台の跡に手向けられた花束

橋げただけが残る

現地を視察する一行

田んぼに打ち上げられた漁船
「こんなところにも津波が押し寄せたのか…」
車窓にうつる光景を見ながら、長崎大学病院の河野茂病院長はしばらく言葉を失った。
6月26日、南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長の案内で津波の被災地域を視察した。

荒野を突き抜ける一本道を海に向かった。山積していたがれきは4月に比べて片付けられていた。泥で覆われていた大地には雑草が生え始め、うっすらと青く色づく。道端には一輪のタンポポが花を咲かせ、力強く大地に根付いていた。辺りを見渡せば、家の土台だけが並ぶ。脇には鮮やかな花が手向けられていた。火力発電所近くを車で巡ると、橋げただけが無惨に残る。ここはあの日のまま、時間が止まっていた。

国道6号沿いを走ると、船底を空に向けたボートや漁船が田んぼの真ん中に30隻以上も点在していた。持ち主が動かさない限り、そのままだという。「あまりに理不尽なことが多い」と金澤院長は悲しげな表情で話した。「個人で撤去するのはまず無理。なぜ撤去にかかる費用や作業を行政や国が担えないのか」。河野病院長は語気を強める。

放射線の“被害”だけでなく、津波の大被害に遭い助けを必要としている福島県。「宮城や岩手の津波被害はテレビでよく見る一方で、これほど福島県がひどいとは…。派遣した先生たちの報告を聞いていたが、現地がこんなに悲惨だったとは思いもしなかった」。河野病院長は国にも国民にも状況がうまく伝わらない現実を憂いた。

2011年6月27日月曜日

飯舘村の復活を信じて 


荒れた田畑が目立った飯舘村

 福島市と南相馬市を往復する途中、放射線量が高いといわれる飯舘村を通る。4月上旬にはところどころに根雪が残り、計画的避難区域に設定されていなかった。約3カ月後。土に覆われていた田畑には雑草が生い茂り、人の手が行き届かない荒れ地が目立った。

 「飯舘牛というブランド牛があって、村の人たちは畜産業に頑張っていたんですよ。この村はどぶろく特区にもなっていて、酒もおいしかったんです」。車中で福島県立医大の鈴木眞一教授がこう教えてくれた。「どぶろくの飲める店」と書いた看板が目に飛び込んできた。

 畜産業と農業を基幹産業として生計を立ててきた村は今、ゴーストタウンになった。役場も福島市内に移り、家々は雨戸が閉め切られた。

 この村に再び明かりが灯る日を信じたい。長崎が荒野から復活したように。おいしい飯舘牛も、どぶろくも、必ずファンの口に入る日がくるように。

放射線への誤解が差別や偏見を生む

南相馬市の現状について話す及川副院長(手前)
 南相馬市立総合病院の及川友好副院長は当直や手術という医師の役割を果たす一方で、市内の小中高校の被ばく線量を計測して情報提供にも努めている。「この町では自治体も被災者。自治体の職員は約8割の苦情の電話を1カ月以上受けて精神的にもまいっている。線量計で測定する仕事は本来行政の仕事かもしれないが、余力がある人がやるしかない」。市全体のマンパワー不足も相まって、及川副院長自身、激務が続く。
 
 岩手県や宮城県と同じく甚大な津波被害を抱えているものの、医療の提供や情報伝達という支援を「放射線への誤解」が阻む現状がある。ここ数カ月、国の放射線量の基準が二転三転する中、住民たちは振り回され不安にさらされてきた。さらに周りの市町村や県外の人たちは南相馬市に近づくことを恐れ、福島ナンバーの車の出入りを拒絶した。

 「いじめられっ子の気持ちが分かった」。及川副院長はぽつりとつぶやいた。震災以降、原発から離れた市町村や福島県外で、放射線を過度に怖がるあまり、差別や偏見を生み出した。被爆地長崎や広島でも同じような問題を抱えた歴史がある。「被爆した若い娘は結婚できない」「放射線がうつる」などという誤解が多くの被爆者を奇異の目にさらした。

 いったい私たちは苦い経験や歴史から何を学んでいるのだろうか。


 河野病院長は金澤院長と及川副院長に窮状が届いていないことを伝えた。「全国の医師や国の目は岩手や宮城に向いており、福島に向いていない。南相馬市のこんな状況を知らない人がほとんど。実際に来てもらって見てもらうべき」。

地域医療の復活は地域の再生につながる

南相馬市立総合病院を訪れた河野病院長(右から2人目)

避難所訪問後、別れ際に深々とお辞儀を交わす。金澤院長の感謝の気持ちが伝わる
 「本当にありがとうございました。どこからも医療支援が入らない中、長崎のチームに入ってもらって、医療を必要とする人たちを掘り起こしてくれた。本当に助かった」。南相馬市立総合病院の金澤幸夫院長は深々と頭を下げた。
 震災当時18人いた医師も今ではわずか5人。当直を回しながら、外来などに対応している。7万人といわれていた南相馬市の人口は震災から約4カ月弱で3万1000人まで減った。
  しかし人口が減少する一方で、緊急時避難区域に入る同病院は入院患者の受け入れにこだわった。6月中旬から70床を持つことが福島県から許された。そこには南相馬市自体の再生を懸ける姿勢も垣間見える。
 同病院の及川友好副院長はいう。「医療、福祉、教育を柱に町おこしに取り組んできた。これらがなければ住民たちは安心してこの地で生活をすることができない。まずは医療の再生を目指していきたい」。
 この3カ月で支援の形は変化した。これまでは孤立した医療難民を拾い上げる“急性期”だった。今度はシステムや態勢を整える「地域医療の再生」という次の局面へと展開している。

河野病院長が南相馬市を訪問

雨の一日になった福島
 6月末で長崎大学病院は南相馬市への医療支援を終える。4月からのべ30人を超える医療スタッフや職員を派遣してきた。6月26日、河野茂病院長は福島県を訪問。南相馬市の医療支援終了にあたって挨拶しておきたいという律義な姿勢が表れる。
  午前8時半、河野病院長は福島県放射線健康リスク管理アドバイザーで長崎大学大学院医歯薬総合研究科長の山下俊一教授らとともに福島市を出発、南相馬市の市立総合病院へ向かった。気温は18度。肌寒い雨の一日だった。

2011年4月26日火曜日

福島県立医大の副理事長らが表敬訪問 医学部施設など視察

長崎大学病院を訪れた県立福島医科大学の一行
福島県立医科大学の竹之下誠一副理事長ら一行が26日、長崎大学病院を表敬訪問し、長崎大学病院の被ばく医療について、熱心に耳を傾けた。また長崎市内にある放射線影響研究所を視察。午後からは長崎大学医学部の原研施設を見学した。

河野病院長が今秋、院内に設置予定の感染症と被ばく医療、救急医療に迅速に専門的な医療に取り組む「国際医療センター」のビジョンを説明。現在、ロシアの被ばく者に対して取り組んでいる再生医療にも触れ、国内外での幅広い取り組みを紹介した。長崎大学病院の国際ヒバクシャ医療センターの大津留晶准教授は「海外の被ばく者を健診で訪ねるとき、長崎から来たといえばみんな喜んでくれる。単なる疫学調査だけでなく、これまで多くの被ばく者の健康増進につながる診療に関わってきた成果」と、これまでの臨床分野での実績について話した。

福島県立医科大学からは「被ばくされた患者さんが実際に運ばれてきたときのシステムはどのようになっているか」など質問。大津留准教授は「国際ヒバクシャ医療センターを中心に、救急やICU、血液内科など各科が連携するよう体制を整えている。佐賀県の玄海原発で事故が発生した場合を想定して、年一回訓練を実施している」と説明した。

両大学は4月、教育、研究、診療の分野で協力体制を整えることに合意。現在、緊急被ばく医療の分野などで連携している。

2011年4月21日木曜日

緊急被ばく医療の現場 長崎新聞で企画連載

2011年4月21日付長崎新聞1面
4月21日付長崎新聞1面。緊急被ばく医療チームの企画記事が掲載された。連載は3回の予定。

(上)http://www.nagasaki-np.co.jp/news/daisinsai/2011/04/22160043.shtml
(中)http://www.nagasaki-np.co.jp/news/daisinsai/2011/04/22161236.shtml
(下)http://www.nagasaki-np.co.jp/news/daisinsai/2011/04/23092404.shtml

記事は、福島第一原発で原子炉建屋内で作業する作業員が搬送されたときの緊急被ばく医療に取り組む長崎大学病院と福島県立医大附属病院の両病院の医師、看護師たちの様子に着目。原発事故を誘発しかねない余震への不安、被ばくした患者を前に医療スタッフの放射線への恐怖と闘いながら、連携していくさまを伝える。

長崎大学は3月13日、緊急被ばく医療チームを派遣。福島県立医科大での救急に備えて医療体制を整えてきた。4月2日、福島県立医科大学、広島大学と協力支援していくことで調印した。

2011年4月19日火曜日

使命感と勇気 医療スタッフのひたむきな姿

保健師たちは避難所を巡って被災者の健康状態などをチェックする
福島県南相馬市。若い女性の保健師たちが避難所を巡る姿がある。20代の彼女たちの明るい笑顔は被災した人たちに、そして現地の医療スタッフたちに元気を与える。福島弁で声をかけられると、被災した人たちはほっと安心しているようだ。

一人の20代の保健師に尋ねた。若い女性たちが放射線の健康被害を懸念して県外に移っていく中、どうして残るのか、と。
「仕事ですから」。少し戸惑いながらも清々しい笑顔で答えてくれた。健康被害がないといわれるレベルと認識していても、周りが大騒ぎする姿を見るにつけ、不安を抱かずにはいられないはずだ。しかしこの地に残って、医療を必要とする人たちがいる以上、与えられた使命を懸命に果たそうとしている。


緊急被ばく医療に取り組む福島医科大では震災直後、浮き足立っていた。そんな中、長崎大学は医師や看護師たちを派遣。ともに福島第一原発の作業員たちの被ばくに対応する中、医療体制を整えるところまでたどり着いた。搬送された作業員たちを診療する際、長崎大学病院の医師や看護師たちが率先してい診療に取り組む姿を見せ、現場を勇気づけた。専門的な知識とノウハウ、そして被爆地長崎からの協力が一体感を生み出し、信頼を築いている。

どの現場でも使命感を持って、ひたむきに医療にのぞむスタッフの姿勢。医療の原点がここにある。

2011年4月13日水曜日

医師たちの熱い思い 医療支援の意義

「現場の保健師さんや医師、医療スタッフの声が一番大事ではないでしょうか。われわれはあくまで支援ですので、この地域の医療が自立するお手伝いできているのですから」。4月4日の南相馬市での初会議。長崎大学病院の安岡彰副院長はこう言った。




長崎県チームの思いは熱かった。「避難所では生活できない。避難所にいたお年寄りたちが過酷な環境で生活できないから、自宅に戻ってきている」と県医師会チームとして参加した井上病院(長崎市)の井上健一郎院長は強調。安岡副院長も「避難所に移動させて状態を悪化させるリスクが、騒がれている放射線の健康被害よりはるかに上」と懸念する。


入院を必要とするお年寄りが出てくるたび、壁にぶち当たった。政府は30km圏内での入院を認めていない。圏内にある病院は通院のみ。入院機能をどうするかが、この地域の大きな課題だ。


こうした中、少しずつ連携が生み出された。4月上旬の会議で少なかった会議の参加者も増えていき、南相馬市長寿政策課など介護サービスの分野でも職員たちが参加するようになった。医療のほかに介護サービスのニーズが高いと判断したからだ。歯科診療も地元の歯科医師会に働き掛け、少しずつ輪を広げている。


この方針や思いは第2陣に引き継がれている。今、現地で歯科医療に取り組む2チームも避難所などで、表に出てこない歯科のニーズを実感しているようだ。長崎県チームの熱い思いが周りを突き動かしているようにも見える。スムーズに事が運んでいるわけではないが、現場は一つ一つをどうにかしようと動き始めている。


4月12日。長崎大学病院は5月末までの支援体制を通知し、準備を整えている。遠く離れた地から福島県の地域医療の再生を強く望んでいる。いつでも福島県の要請に応えられるように。

2011年4月12日火曜日

長崎新聞に活動紹介 

現地の長崎県医療チームの活動を伝える長崎新聞
福島県で在宅医療に取り組んでいる長崎大学病院の医療チームの活動の様子が4月12日付長崎新聞に掲載された。現在、中村英樹医師と張川恭子看護師が第2陣として、福島県南相馬市を訪れている。


記事は同行ルポで、30km圏内で独り暮らしするお年寄りの様子やこの地域での放射線量がどのくらいかを説明する中村医師の様子などが伝えられている。


福島第一原発に緊急事態が発生した場合に備えて設けられた同心円の20km圏内の「避難指示区域」と30km圏内の「屋内退避区域」。11日、政府はあらたに被爆線量が高い地域を「計画的避難区域」に設定する方針を明らかにした。新聞やテレビ報道などによると、1年間の積算線量が20mSvに達するおそれがあるためで、飯館村や南相馬市の一部などが入る。1ヵ月後をめどに避難を開始するそうだ。また、緊急時に屋内退避や避難する「緊急時避難準備区域」も設ける。


長期化を示唆する今回の発表。緊急時避難区域に残る在宅のお年寄りの医療が今後課題になりそうだ。

第1陣が病院長に活動報告 「継続的な活動を」

現地の様子を報告する安岡副院長(右から2人目)
福島県南相馬市などで地域医療に取り組んだ長崎大学病院チームが4月11日、河野茂病院長に現地での活動を報告。現地の被災状況とともに、今後の医療活動に必要なものなどを具体的に提言した。

長崎大学病院は医師一人、看護師一人で構成する在宅医療担当チームと歯科担当医師の合わせて2チーム。第一陣として、在宅医療担当に安岡彰副院長と鉦打健看護師、歯科担当に齋藤俊行教授を派遣した。5月末まで継続的に交代で派遣する。

避難所を中心に歯科診療に取り組んだ齋藤教授は「紙コップで口をすすいでいる。プラスチックのコップや入れ歯を入れる容器が不足していた」と感想を述べた。在宅医療を担当した安岡副院長は「災害弱者が在宅に残っているのが現状。介護サービスを必要としているが、地元の訪問看護や訪問介護に取り組めるマンパワーが足りない」とした上で「できるだけ地元の医師や医療機関につなげていきたいのだが…」と苦悩の色をにじませる。

また休日や今後の連休での活動について、安岡副院長は「被災している人たちには休日はない。自治体が休みだから医療活動も休みにするのでは被災者の信用を失う。できるだけ継続した支援が必要だと感じている」。そう強調した。